竹野健太郎のボディワーク

中動態の世界、もう1回読む力はないかも。

哲学とは

著者の國分功一郎さんがラジオでこう仰っていました。

哲学はどんな領域にも入ることができて、その領域を活性化できる

問題に対して、概念をうまく理解して、概念を利用して、道具として使ってある領域の中の本質を掴み取っていく営み

まぁ〜理解仕切れない、、、無理なのかぁ〜w。さらに中動態の世界についてこう仰っています。

中動態とは・・・。

能動態とか受動態の仲間で、古代のギリシャ語やサンスクリット語にはあったんです。今は何でも能動態と受動態、要は「する」か「される」かに分けて考えるけど、それとは全然違う「行為」の分類の仕方があって、まったく違う仕方で物を考えていたみたいなんです。それがどうして無くなってしまったのか、どうして中動態というものを語ることが無くなったのかを含めて、とても長い歴史で、2000年以上の歴史なんですけれども、それを見ながら「今の僕らの存在の仕方」をもう一度考え直したい。

と同時にこうも仰っています。

例えば薬物依存やアルコール依存を考える時、意志を持った人間が自発的に行為すると考えがちですけど、そういう人間のイメージだと、とても扱いきれない。薬物依存の方が止めるぞ!止めるぞ!と思っても止められない。まったく違う仕方で「行為」を考えなければならない、能動・受動という分け方は不便だし、不正確すぎるんです。新しいカテゴリー、古いカテゴリーなんですけどね、を導入してみたらどうだろうか、ということを提案している本なんです

またまた、別のラジオでこうも言っています。

日常生活には「する」と「される」では分けられないことが沢山あるんです。例えば「惚れる」はどうですか?「惚れる」は自分でやっているの?やらされているの?

自分が「惚れてる」わけだから能動だけど、ある意味相手から刺激を受けているわけだから受動でもあるから、言い切れないわけです

自分がある過程(プロセス)の中にいるのか、それとも過程の外にいるかの分け方だったんです。それがなんで歴史の中で無くなってしまったのはなぜだろう?という謎解きの本です。

理解しきれないよ。

言葉の定義と文法

書籍の流れとしては「言葉の定義」を「文法」の観点から話がずっと進む感じです。本を読み進める上で理解するのが大変でした。そして、書かれていることに関しても理解しきれたとは言えないです。全部を説明はできないので、お得意のキーワードだけ挙げておきます(順不同)。

  • 私が何ごとかをなす
  • 能動と受動
  • 能動態と中動態
  • 意志と責任
  • 意志と選択
  • 権力と暴力
  • 同意と自発
  • 名詞と動詞
  • 自由意志
  • 自由
  • 2つの変状
  • 本質と欲望
  • 矢印の方向と本質の差
  • 徳と罪
  • 善と悪

中動態という文法を通して考える

読み進める上で、中動態というもの自体をより理解したいと考えていましたが、最後までスッキリと理解できない私がいます。中動態とは?という文章を本文から抜き出すとこちらになるでしょう。

能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか、内にあるかが問題になる

書籍自体で中動態という「文法を理解する」というより、中動態という文法を理解しつつ「意志と責任」「権力と暴力」「自由と強制」などを考える書籍と言ったほうが分かり易いかなと思います。

ちょっと難しい本です。特に文法とか苦手な私からすると「言葉の意味」から理解しないと書籍が言いたいことを適切に理解することができなかったので読むのに1ヶ月かかりました。

読んだ感想

分かりやすく中動態を説明できればいいのですが、難しいので印象に残ったもののいくつかを私なりの解釈でご紹介させていただきます。個人的解釈ですから、賛否は受け付けませんw

意志と選択の違い

「意志」によって行為が決定されるのではなく、「選択」によって行為が決定されていると考えることは斬新でした。何かを始める時に「よし、〇〇しよう!」と意志を持つイメージがありますが、行為自体は過去の帰路から「選択」したものである、と言う考え方です。行為自体を「意志」ではなく「選択」と捉えること。そして、その「選択」は「過去の帰結」によって出現すること。この出現って表現も面白いです。そして、何か責任が問われた時に「過去の帰結」から行為の原因となる開始地点を確定するために呼び出されたのが「意志」である。なんだかスッキリした感じでした。ある行為が出来ないのは意志が弱いからではなく、過去の帰結による選択によるものだからです。

名詞と動詞

そもそも動詞ではなく名詞が先にあったと本文では書かれていて、それが非常に面白かった。本文では、

「なぜ君はこの話をするのか?」という意味なのだが、直訳すると「なぜ君にはこの件について話があるのか?」となる

と表現されていて、同じ単語でも名詞として訳すのか、動詞として訳すのかで大分変わります。そして、本文が進むと、この一文があります。

出来事を描写する言語から、行為者を確定する言語への移行の歴史として描き出せるように思われる。

出来事として捉えるのか、その行為者が起こした出来事として捉えるのではちょっと違う気がするのです。表現が難しいですけどね。

徳と罪、善と悪

これは読んでいて、確かに!と考えさせられた。徳とは「人間社会で通用しうる、そしてまた通用している道徳的批判を指す」として書かれている。そして悪徳としては「共感する能力を奪い取る、利己主義なもの」として書かれている。そして、徳と善は必ずしも一致するわけではなく、悪徳(罪)と悪も必ずしも一致するわけではない。

たまたま、本を読み終わったのが土曜日の深夜、日曜日の朝を迎えてテレビをつけたら戦隊ものが映っていました。戦隊ものは敵から地球を守るわけだが、戦闘シーンでは敵をボコボコにしている状態をみて、ふとこのことを思い出したのが面白かった。

勘違いしないで欲しいのは戦隊ものや戦闘シーンのあり方を言いたいわけではなく、地球を守るという徳でも、行き過ぎれば相手を攻撃することもあるという点である。トレーナーの業界でも適切ではない知識や情報を頭ごなしに批判する人がいます。批判は大事なことであるけど、行き過ぎれば相手を傷つけるだけである。正しい情報を広めることは徳だが、それを善だと入れ違いをしてはいけないということである。善だから何をやってもいいわけではない。

という物の見方があるんだ!という点が改めて自分の行動や言動を見直すキッカケになりそうです。

本質・質の差・自由と強制

本質とは「変状する能力」と書かれており、この本質を元に欲望が出現し、これを元に行為や思考がおこなわれると考えられる。

ここは是非、読んでもらいたい。第1章から第7章までが前説な感じである。第8章・第9章が私達の「存在のあり方」のヒントになる気がする。

われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。

これを私は「色の濃淡」のようなイメージだなぁ〜と感じました。能動と受動は切り離されたものではなく、混ざるものなんだと思います。それを理解するために中動態という文法のあり方を知る必要があったのかもしれないですね。

自由と強制

誰しもが何かに影響を受けている限り完全な自由はないと考えると、完全な強制もないと考えられるわけです。自由とは自分の変状が自分の本質を表現できる状態だと考えると、自由は自分次第なんだと考えられる。その与えられた身体や環境による強制はあるかもしれない。また、その後の人生に関わってきた人による強制があるかもしれない。しかし、その自由と強制を本質から考えれば少し自由になる方法を模索できるかもしれないですね。

その他の情報

そもそも、この本を手に取るきっかけだったヒロさんの感想。

このなかにブログ記事の中に色々なリンクがありますから、それも合わせて読んでみてください。面白いというより考えます。

その他、アマゾンレビューも面白いです。読みやすかった!っていう感想に驚きです。

おまけ

勉強の哲学から中動態の世界の2冊は、とにかく疲れる本でした。ただ、面白い書籍であり、書かれている内容については非常に好みな感じです。物事を一種ややこしくして、本質を捉える過程は非常に楽しいです。浅くていいから哲学関連は読んでいこうと思います。この本もたぶん、どっかでまた手に取ることがあるかもね。

中動態を読んだ方は感想を聞かせてください。facebookページもしくはfacebookの投稿ページでもかまいません。面白いというか、この本をどのように捉えたのか聞きたいですね。